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実録3.11①地震発生~備蓄品配給

東北地方から関東地方の広い範囲を襲った、東北関東大震災から10日が経過しました。色々なことをがめまぐるしく起きて、あっという間の10日間でした。ようやく気持ちの整理ができてきましたので、書き綴っておきたいと思います。

■経験したことのない激しい揺れ
はじめの揺れがあったとき、私は職場のデスクでPCに向かって仕事をしていました。フロアは吹き抜けのすぐそばなので、人が通っただけである程度揺れを感じるので、今回もそのようなことだろうと思っていました。

しかし、縦揺れはすぐに強くなりました。今まで体験したことがない、本当に尋常ではない揺れに恐怖を感じました。隣に座る同期と顔を見合わせ、デスクの下に身体を隠しました。

長い長い時間の揺れでした。5分間くらい身体を隠していたような、そんな印象がありました。ようやく揺れが収まったかと思うと、遠くでサイレンのような音が鳴っているのが聞こえました。体験したことはありませんが、よくドラマであるような、空襲警報が鳴っているような印象を請けました。

ただ、周りでは「避難訓練で体験した起震車よりも激しかった」という会話を先輩社員がしていたくらいで、まだそのときは笑って会話ができたのです。

■相次ぐ余震と遮断された携帯電話網
しかしそんな会話もつかの間。間髪を入れずにはじめの余震が襲います。余震と言っても、先ほどの第一波と同じような強く長い揺れでした。改めて身体をデスクの下に潜らせました。

ようやくようやく揺れが収まりました。果たして震源は?震度は?インターネットにアクセスして調べた結果、目を疑いました。

東北地方で震度7。

震度を表す表現としては、かつて見たこともない数字です。同時にすぐさま気になったのが、自宅のある千葉北西部の震度。こちらは6弱という数字。

家族は無事なのか?息子はまだ学校か?娘は?そして妻は?と一気に家族へ思いが向きました。しかしdocomoの回線は全くの麻痺状態で、かかる気配すら見せません。自宅の固定電話にも全くつながりません。

館内放送が入りましたが、家族の安否が確認できない状態に陥った自分にはたいした情報にはなりませんでした。とにかく何度も何度もかけ直しましたが、全くつながらない状態。

ようやく妻からのメールが大幅な遅れとともに届くようになり、地震は娘と一緒に幼稚園にいるときに発生したことが判明。しかし小学生の息子とは合流していないという気になる連絡が。この後、息子に会えたという連絡を受けるまでの時間がいかに長かったかは、表現しきれないものがあります。

周りでは通常の業務を続けようというメンバーもいましたが、自分としてはそんな気持ちにはなれませんでした。相変わらず強い余震が続いていましたし、正直意識が違いすぎて、話にならないくらい。

■電車運行停止と備蓄品配給
果たして電車の運行は停止し、帰宅が困難になりました。日没前に徒歩で帰宅できる圏内ということで、会社から5km範囲に住む勤務者から帰宅しても良いと言うことになりました。その後10kmまで拡大されたものの、自宅は更に遠いので、全くの対象外。それ以外は会社から出ないようにというお達しが。この時点で、会社で一晩を過ごすことが確定しました。

当日、帰宅できない状態になったのが同じフロア内に少なくとも150人以上。特にその日は全国から部長以上が集まる会議があったため、遠方からの出張者が多かった事も重なりました。

備蓄倉庫からカンパンと水が配給されることになったものの、通知も大混乱。フロアのメンバー数名で受け取りに行くことになり、私がリーダーとなって受け取り場所へ赴きましたが、そこに十分な量が用意できないということで、大人数で離れた棟にある備蓄倉庫まで。そこでも受け渡しの量に関する統制がとれているとは言い難く、なし崩し的に配給を受けました。

確かに想定を遙かに超えていた揺れでしたが、会社としても安否確認の手段や備蓄配給が大混乱したことから、危機管理の体制はあるようでないものなのだなということも実感しました。

その②へ続きます。

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