« 2011年1月 | トップページ | 2011年4月 »

2011年3月

実録3.11③翻弄された帰途~帰宅

■翌日7:00から運行再開の情報
地震が起きてから「当日中の運行再開は無し」と発表があった首都圏のJR各路線。明け方になって、「7:00から運行再開の予定」というニュースがTVやWebで流れました。

7:00からの再開に先立ち、次第に出発する人たちが増えてきました。私は焦りは禁物との思いのもとで、しばらく静観を続けていました。明け方からまた視聴を開始したUSTREAMでのNHKを視聴しながら、様子見です。

夜から幾度となく中継放送が成されていたJR新宿駅の映像も、再開に向けて人が集まってきたことを伝え始めました。しかし、7:00まではあれだけ中継されていた新宿駅が、逆に7:00を過ぎた後はなかなか放送されません。

でも動き始めるだろうという判断、そして帰り道に余震があって再度帰れなくなってしまうことのリスクを考え、フロアの殿軍として出発することを決めたのでした。

■事前通り再開しなかったJRの運行
こんな朝早くに会社から駅まで歩くのは初めて経験です。駅までの道すがら、商店街や民家を見渡しましたが、あれだけの揺れだったのにもかかわらずほぼ無傷で、日本の建築技術は素晴らしいと思いました。

しかし、直面したのはJR線が動いていなかったという事態でした。しかも電光表示板を見ると、7:00の運行開始予定から全く動くことができていなかったという状況であることもわかりました。

悩んでいても仕方がないため、ひとまずは品川駅を目指すことに。品川駅に到着後も状況は全く変化がなかったどころか、コンコースは人であふれかえっており、運行再開を待つ人の行列ができていたのです。

■徒歩で東京方面を目指す
仮にこの後運行が開始されても、これだけの人たちが待っている状況では身の安全すら怪しいと思った私は、東京方面を目指して歩くことにしました。山手線沿いを歩いていて、運行が再開されたら途中で駅に入ればよいという思惑でした。

こうなったら徒歩の区間を楽しもうという前向きな思いに切り替わりました。私は徒歩のスピードがかなり速いので、スイスイ、グングンと闊歩していきました。同じように徒歩で同じ方角に向かっている方も多くいらっしゃいましたが、運行していた地下鉄の駅に吸い込まれていき、歩みは更に快適になっていったのです。

歩きながらちらちらと右側の線路を確認しましたが、一向に山手線・京浜東北線共に運行が再開している気配がありません。そうこうしているうちに、銀座までやってきました。

大好きな銀座の真ん中を、こうして朝早く歩いているのはまた不思議な体験でした。震災の爪痕もあまり大きくはないようでした。ラーメンでも食べて帰りたいと思いました。美味しい醤油ラーメンが食べたいな、と。塩味に飢えていたんですね。

しかし、直感的に私は地下鉄の入り口を目指しました。お腹はすいていましたが、何かがかき立てるものがあった。すると果たして、運行再開したばかりの千代田線に乗車することができたのです。

■帰宅、そして家族との合流
その後は乗車した編成からIRとの直通運転が再開されるという幸運が続き、通常の倍以上の時間をかけて自宅の最寄り駅に到着しました。しかし、都心より震度が高かったのは明らかで、駅の施設がところどころタイルがかけたりはげ落ちたりという状況でした。

その後バスに乗って、出発から4時間で自宅に到着。本当に長い長い道のりでした。そして長い長い一日でした。ようやく家族4人で合流できたのです。この時の気持ちは、本当に表現しようのないものでした。

・・・

■震災に遭うのだという事実を知る
今まで、震災には遭わないだろうという頭でいました。阪神大震災も、その後に起きた各地での地震、そしてスマトラ地震の大津波。これらは自分の生活には無縁のものだ、仮に体験しても、生活に大きく影響を及ぼすことはないだろう、という妙な甘えがありました。

しかし、そんな甘えは完全に吹き飛びました。自分のみの周りにこういったことが怒る可能性があるのだ、ということを身体中の感覚器官で体感しました。

これから日本は復旧に向けて動き出すでしょう。しかし、原子力発電所の事故や、放射性物質の汚染、そして電力不足問題・・・もとのような生活には絶対に戻れず、新しい生活スタイルに変化していく事になるのだと思います。

これを私は今後の人生でしっかりと見いだして行かなくてはいけません。3.11が人生においてどのような意味を持つようになるのか、それを見いだす長い長い試練のスタートです。

| | コメント (0)

実録3.11②職場宿泊~夜明け

 

■夕食中に偶然通じた家族との電話
備蓄配給を受けてフロアに戻ると、社員食堂の臨時営業が始まっていました。エレベーターが使えないので、職場のメンバーで連れだって、階段でフロアを再度下がりました。

ここでも食堂に入るまでの列が大行列で、この時点であきらめる社員もちらほら。メニューも二種類固定で、始めにどう並んだかでメニューが決まり、しかも変更ができないという運営方法でした。しかも通常のプリペイドカードは使えず、現金による前払い制。

そうして得られたうどんを食べていると、不意に携帯電話が鳴りました。混み合っている回線を何とかくぐり抜け、妻からの携帯電話コールがつながったのでした。やはり声を聞けることの安心感は何とも言えないものがありました。

いつ切れるともわからない回線を必死に気持ちでつなぎながら、妻と息子と娘、それぞれとしっかり話をするこができました。娘から「パパいつ帰ってくるの?」と言われ、「今日は帰れないんだよ。ごめんね。」と謝りつつも、何とも和んだ気持ちになったものです。

■次々と明らかになる被害の大きさ
自席に戻り、Twitterで知っていたUSTREAMのNHK/TBSの放送を視聴することにしました。会社のインフラではありましたが、この際そうも言っていられません。会社からの外部サイトアクセスが混み合っているせいか、なかなかスムーズには見られなかったものの、この貴重なライブ情報源に何人か集まってきましたし、とても有効な手段でした。

しかし、津波が港を飲み込む映像が流れ始め、地震の揺れだけではない被害の大きさに絶句。世闇に燃えさかる気仙沼市の大規模な火災の映像は、見ていて本当に辛いものがありました。

■両親・弟妹・祖母の安否
我が家の無事は確認できたものの、次の懸念は両親・弟妹・祖母でした。東京で働く弟妹からメールがあり、3人の無事は確認し合うことができました。妹は長い距離を会社の人と歩いて帰宅しているとのこと。また、医師である弟はちょうどICU勤務で、「余震で人工呼吸器や挿管チューブが倒れたり外れたりしないようにしている」という連絡がありました。自らの安全を確保しつつも、患者さんの安全を確保しなくてはならない、そんな弟の姿に敬意を覚えました。

二人とメールのやりとりをしていたものの、両親と祖母の安否がまだわからないとのこと。メールもタイムリーに届かない状況であるものの、とにかく発信し続けることでいずれも時間をかけて確認することができました。従姉妹と連携して安否を確認した妹のお手柄。

ということで一通りの安否が確認され、ようやく一息つけたのでした。

■気持ちを落ち着かせるために始めたこと
一息ついてからが、長い時間の始まりでした。家族の安否は確認できたものの、やはり実際遭うまでは落ち着けないものです。中規模の余震は相変わらず続いていましたし、それに合わせて周囲の複数の携帯電話が、受信した緊急地震速報を合唱しています。

落ち着くために始めたのは、原稿を書くことでした。BloomStyleの特集記事の原稿は、何にも問題がなければ翌々日を〆切としていましたので。備蓄のカンパンを食べながら、黙々と書き続けたのでした。(結局は発刊日を延ばすことになりましたけれど)

原稿も無事に終わり、その後は仮眠をとることにしました。椅子のリクライニングを倒して、足を伸ばしながら目をつぶりました。でも蛍光灯が明るくてイマイチ寝付きが悪いので、ブルゾンを被ってあかりを避けました。

■そして迎えた夜明け
ぐっすり眠れたかというと、もちろんそうではありませんでした。4:00頃にあった大きな余震で目が覚めて、それっきり起き続けることに。

あまりのことで忘れていましたが、それから起きあがって歯を磨きに。そしてインスタントコーをつくって自席に戻りました。

すると次第に夜が明けてきました。真っ暗だった外の風景を、朝日が次第に明るく照らしていきます。家族4人が再開する一日が始まった。朝日を見ながらそう思ったのでした。

| | コメント (0)

実録3.11①地震発生~備蓄品配給

東北地方から関東地方の広い範囲を襲った、東北関東大震災から10日が経過しました。色々なことをがめまぐるしく起きて、あっという間の10日間でした。ようやく気持ちの整理ができてきましたので、書き綴っておきたいと思います。

■経験したことのない激しい揺れ
はじめの揺れがあったとき、私は職場のデスクでPCに向かって仕事をしていました。フロアは吹き抜けのすぐそばなので、人が通っただけである程度揺れを感じるので、今回もそのようなことだろうと思っていました。

しかし、縦揺れはすぐに強くなりました。今まで体験したことがない、本当に尋常ではない揺れに恐怖を感じました。隣に座る同期と顔を見合わせ、デスクの下に身体を隠しました。

長い長い時間の揺れでした。5分間くらい身体を隠していたような、そんな印象がありました。ようやく揺れが収まったかと思うと、遠くでサイレンのような音が鳴っているのが聞こえました。体験したことはありませんが、よくドラマであるような、空襲警報が鳴っているような印象を請けました。

ただ、周りでは「避難訓練で体験した起震車よりも激しかった」という会話を先輩社員がしていたくらいで、まだそのときは笑って会話ができたのです。

■相次ぐ余震と遮断された携帯電話網
しかしそんな会話もつかの間。間髪を入れずにはじめの余震が襲います。余震と言っても、先ほどの第一波と同じような強く長い揺れでした。改めて身体をデスクの下に潜らせました。

ようやくようやく揺れが収まりました。果たして震源は?震度は?インターネットにアクセスして調べた結果、目を疑いました。

東北地方で震度7。

震度を表す表現としては、かつて見たこともない数字です。同時にすぐさま気になったのが、自宅のある千葉北西部の震度。こちらは6弱という数字。

家族は無事なのか?息子はまだ学校か?娘は?そして妻は?と一気に家族へ思いが向きました。しかしdocomoの回線は全くの麻痺状態で、かかる気配すら見せません。自宅の固定電話にも全くつながりません。

館内放送が入りましたが、家族の安否が確認できない状態に陥った自分にはたいした情報にはなりませんでした。とにかく何度も何度もかけ直しましたが、全くつながらない状態。

ようやく妻からのメールが大幅な遅れとともに届くようになり、地震は娘と一緒に幼稚園にいるときに発生したことが判明。しかし小学生の息子とは合流していないという気になる連絡が。この後、息子に会えたという連絡を受けるまでの時間がいかに長かったかは、表現しきれないものがあります。

周りでは通常の業務を続けようというメンバーもいましたが、自分としてはそんな気持ちにはなれませんでした。相変わらず強い余震が続いていましたし、正直意識が違いすぎて、話にならないくらい。

■電車運行停止と備蓄品配給
果たして電車の運行は停止し、帰宅が困難になりました。日没前に徒歩で帰宅できる圏内ということで、会社から5km範囲に住む勤務者から帰宅しても良いと言うことになりました。その後10kmまで拡大されたものの、自宅は更に遠いので、全くの対象外。それ以外は会社から出ないようにというお達しが。この時点で、会社で一晩を過ごすことが確定しました。

当日、帰宅できない状態になったのが同じフロア内に少なくとも150人以上。特にその日は全国から部長以上が集まる会議があったため、遠方からの出張者が多かった事も重なりました。

備蓄倉庫からカンパンと水が配給されることになったものの、通知も大混乱。フロアのメンバー数名で受け取りに行くことになり、私がリーダーとなって受け取り場所へ赴きましたが、そこに十分な量が用意できないということで、大人数で離れた棟にある備蓄倉庫まで。そこでも受け渡しの量に関する統制がとれているとは言い難く、なし崩し的に配給を受けました。

確かに想定を遙かに超えていた揺れでしたが、会社としても安否確認の手段や備蓄配給が大混乱したことから、危機管理の体制はあるようでないものなのだなということも実感しました。

その②へ続きます。

| | コメント (0)

« 2011年1月 | トップページ | 2011年4月 »